明治23年(1890年)5月5日
板垣退助、総選挙に備えて、愛国公党大会で自由党と大同倶楽部の合同を提唱する。
明治23年7月1日 第一回衆議院議員選挙が本州、四国、九州で実施
選挙権資格者数は約45万人(総人口3938万人の1.14%)。
結果は、民党(反政府系)の立憲自由党130、同じく民党系の立憲改進党が41で定数300のうち171を占める。このほか大成会79、国民自由党5、無所属45。
奄美大島から基俊良が同志会で、新進気鋭の大島信を破り当選する。
『以後100年以上にわたり、奄美諸島、特に奄美大島で続いてきた対立的社会構造の始まりであった。』明治23年11月25日第1回帝国議会召集。議長に中島信行、副議長に津田真道を選出 。
11月29日に第1回帝国議会開院式が天皇親臨のもと行われる。
基俊良 1826年(文政9年)3月~1904年(明治37年)5月15日
明治維新の頃の名瀬金久村の与人。
素封家(大きな官職や領地はないが、非常に大金持ち)として知られていた。
その妻、「みの加那」は、新婚間もない頃、潮干狩りに行って深みにはまり溺死してしまった。
新妻を亡くした俊良を慰めようとして、村人達がその頃良く唄われていた「ぎんどろ節」の曲に、
「泣くな嘆くな伊津部ぬ俊良主~」という詩を作って唄った。
その詩が広がり「ぎんどろ節」は、「俊良主節」といわれるようになり、
俊良の名声をさらに高めることになった。
明治23年に行われた第1回衆議院議員総選挙で、64歳の俊良が、新進気鋭の大島信を破り、
大島地区から初の代議士に選ばれたのも、その「俊良主節」が貢献したのではないでしょうか。
(25年の第2回総選挙は、大島信に破れる。)
「この曲は、明治から大正にかけて最も広く歌われた曲であるが、初め『ぬぶしぬたかさ』とも『うくまた節』とも言った歌が、少しずつ変わり、『ふなぐら節』となり、明治になってから『俊良主節』となった。(恵原義盛著・奄美の島唄)」
それで「俊良主節」は悲しいお悔やみの言葉ですが、元々は、美しい曲であり美しい歌詞も多いのです。
龍郷町では、「俊良主節」は、「唄の三献」の一つになっていて、唄の席では必ず詠われる詩になっているそうです。
「奄美諸島社会における対立構造」については、
高梨先生のブログ「奄美諸島史の憂鬱」200612
23日分を是非読んでみて下さい。
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