慈愛の法学者 泉二新熊

明治大正昭和にかけて,著名な刑法学者で,最高裁判所の長官となった。
泉二新熊(1876年~1947年 龍郷出身)
東大卒業後、司法省に入り、1915(T4)大審院判事、36(S11)検事総長、38(S13)大審院長となる。
退官後、枢密顧問官、その間、刑法学者として折衷的客観主義の立場から刑事司法の解釈・実務論を展開、泉二刑法と称された。著書に「日本刑法論」全2巻がある。
また岩切登著作の「泉二新熊伝」1955などもある。

泉二新熊

<生い立ち>
明治9年(西暦1876年)に現在の奄美大島・竜郷町中勝に生をうけた。
泉二新熊は,幼時を回想して次のように記してある。
 『私の郷里は,龍郷村の大字中勝である。
私の幼少の頃,中勝にも簡易小学枚というものがあったけれども,
やがて隣村の戸口小学校に合併せられ,約一里ほどのところを私たちは通学した。
この頃,豊後竹田の出身,松岡辰五郎という漢学の先生が,故あって中勝に寓居せられて,その家塾で二年ほど親しく教養を受けていたのであるが,これが私の後日の素養の胚芽をはぐくんでくれたのである。
私は今なお,この師の恩を忘れることはできない。
先生は不幸にしてこの僻地の異郷に病没せられた。
そこで私は,12才の時,父母の膝下を辞して,
首都名瀬市に出て小学枚を卒業し,やがて新設の高等小学枚一年級を修業してから,
明治23年,15才の時に,笈を負うて東京に出た。』(「故郷奄美大島」より)

 戸口の小学枚時代,新熊は,「世の中の出来事は何でも本に書いてあるから,読書ほど面白いことはない。」というほど本が好きな少年で,
暗記するまで何編も何編も繰り返し音読し,小学校に通う途すがらも本を開いていた。
 新熊が終生,師として尊敬した松岡辰五郎は,当時大勝に在った大島登記役場出張所の書記として,新熊の母の生家である大島家に下宿して,通勤の余暇に中勝の青少年を集め.漢籍の素読や習字を教えていたものであるが,下宿中に病没し,共同墓地の一隅に葬られた。

 新熊は12才の時,名瀬の尋常小学校に転校したが,そこで素晴らしき勉強相手に出会うことになる。
後の北九州大学学長の大島直治である。
新熊の下宿先は,大島直治の家とじき隣りあっていて,また二人は親戚同志であった。
二人はお互いに,新熊クミ,直治カナと呼びかわして,一緒に勉強し,お互いを磨いていった。

 当時のことを,大島直治は次のように語っている。
『今を去る68年も前のことである。
ある春の日の早朝のこと,一人の少年が私の郷里の家(名瀬)を訪れてきた。
だれか年長の人がつき添っていたが,はっきり記憶しない。
私が父の居間の小部屋で読書しながら,それとはなしに少年の挙動に気をつけていると,端然として父と対座し,少しもわるびれる色もなく,きまりわるがらず,てれくさがらず,恰かもいっぱしの成人のような口調で,「両親からよろしく申し上げました。」とか,「今後よろしくお願い致します。」とか,父に堂々と初対面のあいさつを述べているので.私はその落ち着いた態度に,少なからず関心をそそられたのであった。
この少年こそが,来るべき枢密院顧問官法学博士,泉二新熊氏の満12才の頃の姿であった。
(略)私の父は口癖のように,この少年は屹度大成するに違いないといっていた。
すぐれた天分の閃きが感知されたからでなければならぬ。
この天分こそは,何にも増して「少年泉二」を大成に導いたものといえるであろう。』

 大島直治によると,泉二新熊は前述の松岡辰五郎から,日本外史,国史略,
皇朝史略,文章軌範のような難しい本を学んでいた。
大島直治は新熊に誘われて,中勝にたびたび訪れたが,
名瀬から中勝まで徒歩で半日の行程であった。
「名瀬を出て佐大熊の集落を過ぎ,フナグラビラ(船坂路)を越え,浦上を通り,
更にフンチヤビラ(本茶峠)を登り,峠の茶屋に息を入れて曲りくねった坂路を右へ左へ下って,辿りついたところが中勝である。
村のすぐ入口に恰も,名門を象徴するが如き,雲を凌ぐ巨大な二本の老松がおのずからにして門をなし,汽車で東海道を通過するときに,窓から眺められる湯ケ原あたりを偲ばすような,蜜柑の樹の茂った小高い裏山を背負った一廓が泉二家の邸宅であった。」と,大島直治は回想している。
なお,この泉二邸は,中勝青年団に寄贈せられ,
そこに r法学博士泉二新熊先生誰誕生之地」と題する記念碑が立っている。
同じように泉二新熊は,名瀬,中勝間を歩いたことなどを次のように語っている。
当時,交通機関はなく,名瀬~中勝間は徒歩であった。
 『名瀬の小学校時分は,週末に家に帰って,一週間分の食糧を貰ったものだが,途中の山道には「おばけが出る」などと言い伝えられる個所がいくつもあった。自分は,口では「なあに,おばけなど出るものか」と,強がりをいうが,矢張りそんな場所を通る時は,何だかゾウと怖い気持ちがするので,一生懸命に走って通りすぎたものだ。
だから,名頼~中勝間,三里余の道程を,2時間そこそこで往来した。
有屋と名瀬間の出坂は頗る険しく,ここを起すのが一番辛かった。
 また,鶏を喧嘩させるために,学枚から帰ると道具を投りだしては夢中になり,自分の鶏が負ると口惜しいので,一日泣き通したこともあった。』と,述懐している。

明治23年に,名瀬に高等小学校ができ,新熊も12才のとき入学した。
年令に制限がなかったので,13,14才の少年から20才位の青年まで,全郡から秀才が集った。
新熊は,名瀬高等小学校一年を修業すると,東京進学を決意した。
動機はいろいろあるが,当時東京で内務省の役人をしていた叔父の大島信(後の代議士)に,隠された能力を育てるために上京し,自分のところで勉強することを勧められ発憤したことと,学力が余りに進みすぎていて,名瀬の学校ではもの足りなかったことなどであったといわれている。
両親ははじめ,東京進学に難色を示していたが,新熊は,進学を2,3年後にのばせば,一刻千金の修学期を空過するの絶対不利なことを主張し,また「男子志をたてて郷関を出づ,学もし成らずんば死すとも帰らず」という古詩を読んだりして,ついに許可を得たのであった。

  上京した新熊は,大島信宅に下宿しながら,郁文館中学に入学し,明治27年(1894年)首席で卒業したが,
当時同居していた弟の利光氏が,ひどく健康を害し,東京で勉学を続けることが困難な状態にあったので,鹿児島高等中学校造士館予科二級に編入した。
翌28年学制改正により.熊本の第五高等学校一年に入学を許された。
当時の五高教師の中に夏目漱石がいた。
ドイツ語が良くできて,ドイツ語で書いた熊本案内記が,五高の図書館に保存されていたといわれている。
 3年間の熊本での生活を終え,明治31年9月に東京帝国大学法科大学(独法科)に入学した。
母徳千代の妹愛千代が,奄美出身の明治の判事岡程良に嫁いでいるので,
彼の影響があるのかもしれない。
 大学時代の勉強ぶりについては,詳しい資料がなかったが,終生の親友で,
徳之島出身の久留義郷氏によると,ドイツ人教授ヘンホルム博士の原書の講義をとった泉二新熊のノートは,正確無比で,文法はもちろん語尾の結びが一点の誤りもなく,新熊の頭脳の正確緻密なのに驚嘆したということである。

 新熊は,明治34年6月帝国大学在学中に,和歌山県の人で平松知貞の令妹菊尾さんと結婚し,新生活に入った。26才のときである。
ちなみに平松氏は,明治27年,名瀬に師範学枚分教場,通称教員養成講習所ができたとき,教師として赴任してきた人である。
 このように,泉二新熊は素晴しき天分と,人生に大きな影響を与えた良き師たちに恵まれて,法学への道を進んでいったのである。

<登場人物>
①当時東京で内務省の役人をしていた叔父の大島信
大島信は、明治10年、西南の役直前に上京し、東京帝国大学農学部<当時の駒場農学校>を卒業、内務省の役人を経て、明治25年2月から31年3月まで、三期連続奄美選出の衆議院議員として活躍した。
②のちの北九州大学学長の大島直治
③豊後竹田の出身松岡辰五郎
④奄美出身の明治の判事岡程良
⑤徳之島出身の久留義郷
1878年、徳之島亀津生れ、1957年没。
徳之島出身 東大卒、鉄道局長、代議士。
1915年には第二代東京奄美会長をして島のため健闘した。
1904年、東大独法科を卒業、高等文官試験に合格、鉄道省に入り6年間も係長をしていたが、
発奮して著書を出したらそれが認められ、洋行したりして鉄道局長にまで昇進した。
1927年、鹿児島三区の補欠選挙で衆議院議員に当選、
所属は、立憲民政党。翌年は落選、1930年に返り咲いた。
久留代議士の活動で記録に残るのは、鹿児島枕崎線の建設に努力したこと。

1936年発行『奄美愛郷百話』に「処世要諦五か条」を寄稿している。
現代にも通用する内容でもある。全文四千字。
(1)一生一業主義に徹すること。
(2)怒ることを避けよ。
(3)一技一能を培養せよ。
(4)酒の交遊を警戒せよ。
(5)出処進退を明らかにせよ。
 自身の体験記を若い人に分りやすく書いてある。
 著書『実用購買論』『敗戦の国々を辿りて』

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