『縄文時代晩期に、すでに中国との交渉のあった列島の倭人国の内、
漢の武帝時代に往来して、最も勢力があったと中国に認識されていたのは
南西諸島、奄美大島の邪馬薹国であった。
最盛期の奄美大島邪馬薹国は北九州方面まで支配下(あるいは影響化)に置いていたと考えられる。
しかし紀元前二~一世紀になると、秦に滅ぼされた中国東北部の燕国の影響が半島を通じて北九州におよび、北九州を中心にして小国が乱立した。
その勢力は近畿地方に及ぶものさえあった。
次第に列島の主体勢力は南西諸島から北九州に移行しつつあったのである。』
コメント